土佐の小京都”なかむら”の中心に位置する飲食店街、『栄町商店街』。
日が暮れると仕事帰りのビジネスマンらが店から店へとはしごをし、長い夜を過ごすまちが栄町商店街です。
中村市は清流四万十川の河口域に栄える人口3万5千人ほどの市です。
1467年に勃発した応仁の乱を逃れてこの地にやってきた「一條家」がまちをおさめ、京を模したまちづくりをすすめ、現在のような碁盤のまち並みとなりました。
その名残りは、「東山」、「京町通」、「一条通」などといった地名に見られます。
残念ながら、昭和21年に起きた南海大地震により京文化のにおいのする町並みはすっかり失われてしまいました。
現在、栄町商店街は「祇園」をイメージしたまちに変身中です。
外灯や歩道の石畳など、徐々に変貌していきますので、楽しみにしていてください。
■中村市の歴史
◆一條時代以前
度重なる四万十川(渡川)の氾濫や改修工事などにより発見された遺跡を見ると、具同村入田の出土品は石器など縄文時代以前のもので、その他、中村町不破・右山、東山村佐岡・古津賀などからの出土品は、金石併用期以後のものでした。
国造本紀に、波多(幡多)、都佐(土佐)の2国の名を見つけることができ、早くから幡多地域が一国とみなされていたことが伺われます。現在の窪川町仁井田より西にはすでに小文化圏ができていました。奈良朝において安芸、土佐、吾川、幡多の4つに分かれています。
この地は古くから藤原氏の荘園でした。
また、土佐は遠流の国でしたが、鎌倉時代以後はほとんどが幡多へ流されるようになります。その流刑者の中で中村とゆかりのあるのが、法然上人と承久の乱の際この地に自らやって来たと言われる土御門上皇です。
◆一條時代(中村城)
1467年に勃発した応仁の乱で京が兵火の巷と化したとき、前関白の一條教房(のりふさ)公が土佐の豪族らに迎えられ、その荘園幡多に下ってきました。
この地に居を構えた一條氏は、都の文化を移し、京を模したまちづくりをすすめ、現在のような碁盤のまち並みとなりました。その名残りは、「東山」、「京町通」、「一条通」などといった地名にもみられます。
一條教房以後、その子房家、房冬、房基、兼定とこの地を治め、明と交易をするなど、土佐一国の首都でした。
元禄年間、当主兼定は遊んでばかりの放蕩者で揉め事が絶えませんでした。愛想をつかした一部の家臣たちが1574年(天正2年)彼を妻の実家の豊後(大分県)の大友氏のところに追放しました。その後、兼定の子、内政(ただまさ)が後を継ぎましたが、家臣たちが長宗我部氏に後見を頼んだため、実質は長宗我部氏が治めているようなものでした。
1575年、追放された兼定は伊予の豪族の力を借り権力の座を取り戻そうとします。栗本城を奪い中村城をも狙いますが、駆けつけた元親の軍と渡川(四万十川)を挟んでのにらみ合いとなります。これが渡川の戦いです。結局、元親の軍に栗本城も奪われ、一條家の時代は終わります。兼定は、豊後の大友家に戻ることも許されず、豊後水道にある小さな島で生涯を終えたそうです。最期はナポレオンみたいですね。
◆長宗我部時代(岡豊城)
1575年の渡川の戦いで、一條兼定を破った長宗我部元親はこれで晴れて土佐を統一し、重臣を中村に置き中村城監としました。1585年四国を統一しますが、すぐに秀吉に破れ、秀吉の家来となり土佐一国のみを治めます。
◆三万石時代(高知城)
山之内一豊氏が高知藩主となってからは、この地に舎弟の康豊を置き、支藩としました。(中村の奉行所は現在の刑務所付近にあったようです。)しかしながら、元禄2年廃藩され、幡多も衰退の一途をたどります。
◆明治以後
明治の新政により、官衛公署、学校などが設置され、市街地も整ってきます。明治4年7月、廃藩置県により高知藩は高知県となります。
「中村」は明治31年に「中村町」と改め、県下第2の都市となります。
◆南海大地震
昭和21年12月21日まだ夜が明けない早朝、大地震は起こりました。この地震により、全市街は壊滅しました。見渡す限り、瓦礫の山と化した街の写真が残っています。
一年後、街の大半は復興しましたが、以前あった町並みはすっかり失われてしまいました。
◆「中村市」発足
昭和29年3月31日、中村町など11町村が集まり、「中村市」が誕生しました。
参考文献:『中村町史』、『中村市史』(中村市立図書館蔵)
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