いいものを追求!
すべてが自分流
年少の頃より絵が好きで、画家をめざし上京。
当時の東京はビートルズ来日で沸き返っている頃、高円寺の安アパートで浪人生活。
ビル清掃作業など、今でいうフリーターで食いつないだ。
当時はアメリカのヒッピーに影響を受けた若者達、
俗にフーテンと呼ばれる人たちが出始めた頃で、
時代は渾沌としていた。
その頃から『自分の生き方は自分で決める』という淳一さんの信条は、現在に至るまで変っていない。
22歳の頃、フクモト工芸二代目の父が病気で倒れ帰省。父の職人技を見よう見真似で覚える。
その頃は、店舗の陳列ケースや学校、病院、住宅などの家具造りで大変忙しい毎日だった。
現在は三代目として、弟と二人で制作している。シンプルで飽きのこない家具造りをモットーとし、最近、京町にショールームをオープン。
お客様のご要望に合わせたオーダー家具造りを展開し、インターネットで全国にむけて発信している。
「幡多ヒノキに代表される四万十川流域の木材は全国的にも良質」と、材、デザイン共に自信をもっている。
インテリア家具に興味のある方は是非、京町のショールームへお越しください。
フラメンコギター
との出合い
淳一さんには、家具造り以外にもう一つの顔がある。
フラメンコギターを始めて43年。
今でも即興で弾き出したら止まらない。
東京でのフーテン時代、ビルの窓拭きの仕事をしていた頃、
雨で仕事は休み。
たまたま近くのサンケイホールで、高校生の時観たバルセロナ物語のヒロイン、サラ・レサーナ率いる舞踊団のフラメンコを観て「血湧き、肉踊る」ほどに感激する。
粗大ゴミでギターを拾い、毎日ギターを弾いた。音譜も読めずコードも解らず、自学自習をモットーとしている淳一さんは当時、阿佐ヶ谷の喫茶店アランフェスでレコードを聴きながら覚えた。特に、マニタス・デ・プラタ(ジプシーキングスの叔父)が大好きでレコードが擦り切れるくらい聴いた。映画もギター音楽映画ばかり選んで観た。
中村に帰ってからもギターは独学で勉強。別名「アナドールナ」と呼ばれ、今はなき一条通りの飲み屋「圓家」でのコンサートは今でも語り種になっている。
最近では京町通りのイベントでも披露し拍手喝采。
現在、田村ギター7本他計13本のフラメンコギターを所持し、ビール大好き(最近は焼酎)、風呂大嫌いの淳ちゃんは、今日もほろ酔い気分でギターを弾いている。
福本 淳一さん
昭和22年7月3日生れ
四万十市